2025年6月3日火曜日

『白山史学会会報』第129号 [メルマガ8号] 2025年6月4日


白山史学会会員のみなさま


小満の候、会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

『会報』第129号(メルマガ8号)を送らせていただきます。


なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)までいつでもご連絡ください。


******  目次 ******

1. 白山史学会第61回大会・第53回総会のお知らせ

2. 会務報告

3. 常任委員選挙に関するお知らせ

4. 田中文庫選書委員会からのお知らせ

5. 『白山史学』第62号原稿募集のお知らせ

6. 編集後記

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1. 白山史学会第61回大会・第53回総会のお知らせ

白山史学会第61回大会・第53回総会は、6月28日(土)の午後1時半から対面およびオンライン配信のハイフレックス方式で開催されます。プログラムは以下の通りです。


◯公開講演

 白川部 達夫先生(東洋大学名誉教授)「質地請戻し慣行論の地平―近世の村と百姓的所持」

 石橋 崇雄先生   (東洋文庫研究員) 「清朝における「歴代中国王朝」としての「継承」と

 「改革」―東洋文庫所蔵『壇廟祭祀節次』から窺える大清皇帝の試みを中心に―」

◯研究発表

 小林 栄輝氏(井上円了哲学センター客員研究員)「韓述墓誌について」

 岸野 達也氏(大学院博士後期課程)「豊臣期・徳川初期における関東足利氏の嫡庶関係」


◯会場:6218教室(6号館2階)

◯配信URL:https://x.gd/UnGnD


*対面、オンラインとも事前登録なしでどなたでもご参加いただけます。会場にお越しになることが難しい方も、もしよろしければぜひご視聴ください。なお、オンラインで参加される方が当日配布資料をダウンロードするためのクラウストレージトレージ・アドレスは当日お知らせします。


大会終了後、午後6時半から6号館地下1階学生食堂において懇親会を開催いたします。懇親会に参加される場合は事前申込みが必要です。以下のgoogleフォームにて、6月18日(水)までにお申し込みください。会費等詳細は申込みフォームに記しています。

→懇親会申込みフォーム:https://x.gd/AiHk7 


◯研究発表の要旨は以下の通りです。


[小林報告要旨]


 本報告は、報告者が長年研究している昌黎韓氏、韓休の一族について、その唐代における歴史を概観した上で、唐後半期(755~907年)における韓述墓誌をその中に加え、唐代における貴族の実態について検討を加える。

 今回の報告では、韓休の死後、安史の乱(755~763)勃発後の韓氏の動向を対象とする。韓休が亡くなった時点でその子たちの大部分は出仕し、天宝(742~756)年間には全員が官僚となっていた。そのような中、安史の乱が発生し、この乱により滉の兄弟の浩・洪・渾の三人が死亡する。そのほかの生き残った者たちは各地に離散し、それぞれの家の存続を図った。韓滉は山南方面に避難し、その地で辟召を受け、地方官を務め、後に中央官となる。そして実務的手腕を生かし、反乱により立て直しが求められた官僚任命に必要な人事関係の職や財政の職務に貢献するなど、中央高官としての地位を得る。徳宗期は地方官として江南へ赴くが、その地の軍事・財政力を基盤として、唐朝の危機を救い、諸道塩鉄使の職を得、最終的には父の韓休と同じく宰相となる。滉の弟の洄は江南において逃れ、一族の存続を図るとともに、困難な時代にあって儒教的倫理観を行動で示すことで、士林の評価を得、多くの交遊関係を築き、その人的つながりなどを背景として、幕職官あるいは巡院の長官などに登用され、最終的には中央高官となる。滉・洄は安史の乱後緊急の課題であった財政再建問題に大きく関与するなど、唐後半期を理解する上で欠かすことのできない人物たちであり、当時の社会変動について考察する上で意味のある存在だと認識する。近年、韓休の一族の墓誌の発掘により、これまで見えてこなかった一族の動向、とくに安史の乱にともなう一家離散・集合の状況や、正史などの既存の史料で存在は分かっていたものの具体的な経歴など不明であった休の孫・玄孫の世代の動向についても分かるようになった。

 そこで本報告では、韓休の孫にあたる韓述(753~806)の墓誌について述べる。述の父の渾は安史の乱中に亡くなった。その際に述を助けたのは叔父の洄であった。述は恩蔭で官を得、いくつかの官を経た後、貞元年間(785~805)頃には巡院の長官(知院官)を歴任し、最終的には刺史になった人物である。注目すべきは、述が昇進するにあたり財政の実務を歴任していたことである。上述したように、述の伯叔父である滉・洄は重要な財政職におり、韓氏が安史の乱後二世代に渡り、唐朝の財政に深く関与していることが分かる貴重な史料である。また、述の子の復・益・孚の墓誌も出土しており、述の家族や姻戚関係などの状況も把握することが出来る。


[岸野報告要旨]


 戦国期の関東では、関東足利氏の嫡流である古河足利氏が将軍の立場にあり、庶流の小弓足利氏と対立を続けていた。天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏が滅び、関東が豊臣政権の支配下に入ると、秀吉は小弓足利氏の足利頼淳に下野国塩谷郡喜連川の地を与えた。また、翌年には頼淳の子・国朝と古河足利氏の古河姫君との婚姻がなされた。従来の研究では、古河姫君と国朝の婚姻をもって古河足利氏と小弓足利氏が統合され、小弓足利氏の後裔である喜連川氏が関東足利氏の嫡流になったと評価されてきた。その後、江戸時代の喜連川氏は江戸幕府から特別待遇を受けているが、その背景として、豊臣政権による喜連川氏の嫡流化がもとになっていると指摘されている。

 しかし、喜連川氏の特別待遇は文化12年(1815)に記された「喜連川家格式書付」の内容に基づくものであり、近世を通じて同じような待遇にあったのかどうかは未解明である。また近年、谷口雄太氏は中世足利氏の血統について研究するなかで、中世後期の日本には足利的秩序、つまり「足利一門が非足利一門に儀礼的に優越するという認識」が存在したことを指摘している。谷口氏の評価によるならば、喜連川氏の権威が関東足利氏嫡流としてのものなのか、それとも足利一門としてのものなのか、双方ともに可能性があることになる。

 そこで本報告では、古河足利氏と喜連川氏の嫡庶関係を再考した。まず、従来の研究で喜連川氏が嫡流化した証拠とされてきた論点を再検討し、いずれも証拠としては薄いことを指摘した。そのうえで、当事者である古河足利氏と喜連川氏は、双方ともに古河足利氏を嫡流と捉えていた。また、前述のとおり喜連川氏は諸役を負担する立場にあったが、古河足利氏は諸役が免除されていた。さらに、儀礼の面においても、徳川将軍家と同格の古河足利氏、徳川御三家と同格の喜連川氏というように、古河足利氏の方が喜連川氏よりも好待遇であった。したがって、公儀も古河足利氏を喜連川氏より上位の存在として扱っていた。

 以上のことから、古河足利氏が嫡流であり、喜連川氏が庶流であったといえる。一方、喜連川氏も通常の武家よりは高い家格を持っており、「足利一門が非足利一門に儀礼的に優越するという認識」がこの時期にも存在したと評価した。


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2. 会務報告

今年度のここまでの活動状況について、以下の通りお知らせいたします。


◇新入生歓迎講演「歴史学への招待」(2025年4月3日)

・「坂本龍馬の手紙を読む」東洋大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程 小林 哲也氏

*開催概要は学会ウェブサイトをご覧ください。

           https://hakusan-shigaku.org/document/2025_rekishigaku.pdf


◇卒業論文発表会(2025年5月10日)

・「島津斉彬と明治維新」                                                本学卒業生 伊藤 直    氏

・「清代の長江中流域における米穀流通」                           本学卒業生 山田 美菜 氏

・「オートヴィル朝シチリア王国の異文化共生と宗教的寛容」本学卒業生 夏井 颯太 氏

*報告動画と資料を6月末まで以下で公開しています。もしよろしければご覧ください。  

 https://x.gd/tPXQ5


◇常任委員会

常任委員会を以下の日程で開催いたしました。

第1回(7月22日)、第2回(10月24日)、第3回(11月25日)、第4回(3月3日)、第5回(5月5日)。

*2024年度最後の常任委員会(第6回)を6月9日に開催予定です。

*2024年度会計決算、2025年度予算については添付のPDFファイルをご覧ください。


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3. 常任委員選挙に関するお知らせ

白山史学会では、常任委員次期候補者の立候補・推薦を総会の二週間前から受け付けます(書式自由)。候補者の届け出先は下記となっています。なお、応募や推薦は総会当日も受け付けます。


【届け先住所・メールアドレス】  

 ・住所:〒112-8606 東京都文京区白山5-28-20 東洋大学文学部史学科共同研究室内 白山史学会

 ・E-Mail : hakusanshigakukai@gmail.com


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4. 田中文庫選書委員会からのお知らせ

選書委員会では、「田中文庫」として史学史・歴史学理論に関する書籍を日々収集しています。「田中文庫」の書籍について、選書委員会では会員の皆様からの御意見、収集希望書籍を日々受け付けています。専攻を問わず、史学史・歴史学理論などに関する書籍についてお心当たりがございましたら、下記の住所、または白山史学会メールアドレスまでお知らせ下さい。蔵書リストなど、詳細は白山史学会ホームページ「田中文庫」をご覧ください(https://hakusan-shigaku.org/library.html)。


 ・住所:112-8606東京都文京区白山5-28-20東洋大学文学部史学科共同研究室内 

     白山史学会選書委員会

 ・E-mail:hakusanshigakukai@gmail.com


2024年度に田中文庫に新しく収められた以下2点の書籍について、紹介文と書評文を掲載いたします。


◯松沢裕作『歴史学はこう考える』ちくま新書   2024年 

→この書籍は、ある立場を正当化するために引き合いに出されるものとしての歴史、あるいはそれを物語る史料の性質について考察する内容になっています。筆者のご専門である日本近代史のみならず、日本中世史や世界史に対する史料の考え方も所収されているため、幅広い範囲の読者におすすめできる一冊です。(水谷 [博士前期課程] )


◯甚野尚志・河野貴美子・陣野英則編『近代人文学はいかに形成されたか―学知・翻訳・蔵書』勉誠出版   2019年

→論集の構成をとる本書の内容は、タイトルから明らかなように近代における人文学の形成を、日本を中心に取り上げたものである。一言で「人文学」と言っても、その内容は実に多岐にわたるものであり、必然的に本書が採録する各論文の内容は多分野にまたがるものとなっている。小稿ではその概要を歴史学研究との関わりより紹介することにしたいが、まず全体の構成は、以下のように三部に分かれている。


第一部「「学知」編制の系譜」

第二部「越境する言葉と概念――他者との邂逅」

第三部「蔵書形成と知の体系」

 それぞれの部がどのような内容提示を目的とするのかは、表紙に記された以下のようなコピー文が参考となろう。


「第一部…日本の近代人文学の学知がいかに編制され、アカデミズムにおいてどのように学問が構築されたか」

「第二部…過去や異文化という他者との邂逅が、翻訳・翻案などの営為を伴い、いかに新たな知を創造していく力となるか」

「第三部…近代図書館においていかに蔵書が形成され、新しい知の体系化がなされたか」


 このような問題提起をふまえ、全体で17本の論文が掲載されている。その内容は実に多彩であるが、やはり中心的な内容となるのは、明治以後の日本において今日的な意味での「人文学」がどのようにして形成されていったのかを取り扱う第一部での諸論考であろう。たとえば最初に掲載された廣木尚「「国文」から「国史」へ」では、帝国大学での学科編制の変遷を手がかりとして、当初の「国文」という人文学を包括的に扱う学問の枠組みの中から、どのようにして「国史」が独立を果たすに至ったかを追ったものである。こうした近代における人文系の学問の枠組みが確立していく過程をめぐっては、陣野英則「明治期の「文学」研究とアカデミズム――国文学を中心に」も文学の側より取り上げており、新川登亀男「戦後現代の文・史・哲と人文学の世界」がその後の今日に至る人文学の変遷過程を概観していることと併せて、まさに本書の主題がこれらの論考を通じて具体的に明らかにされている。

 本書の意義として指摘できることは、日本においてどのように近代の人文学の枠組みが成立していったのかが、これらの論考を通じて改めて明らかにされたことであろう。言うまでもなく、近代日本の学術の枠組みは欧米からの移入をもとに確立され、その過程では帝国大学史学科で教鞭を執ったドイツ人リースなどお雇い外国人教師が大きな役割を果たしていった。こうした既知のプロセスが改めて取り上げられる一方で、伝統的な学術の枠組みも決して過去のものとなったわけではなく、とりわけ自国の文化を対象とする人文系の学問においては江戸時代からの継続の上で、こうした西洋由来の近代学術との接点が模索されていったことが明らかにされている。

 こうした本書の内容は、中国史を研究対象とする評者にとっても非常に興味深いものであった。これも指摘するまでもないことであるが、近代以前の日本の学術がほぼ全面的に依拠してきたのは伝統中国社会における学術のあり方であり、そこでは儒学を柱とする古典教養の習得が知識の大前提とされた。そのことは、近代に至っても中国の古典が日本人にとっての古典として改めて位置付けられていったことを論じる渡邉義浩「日本の古典としての漢籍」の内容からも明らかであろうが、こうした学術のあり方を受容してきた近世末期の日本の知識人にとって、明治以後代わって欧米に由来する学術体系に全面的に移行することが求められるようになっても、それまでの自らの学術・学知のあり方を全く抛棄することは極めて困難であり、伝統的な学術知識を基礎として近代の学術を受容していったことが様々な面から指摘できる。そのことは、たとえば西周ら哲学者による翻訳を取り上げる第二部掲載の上原麻有子「創造する翻訳――近代日本哲学の成長をたどって」などからも明らかにできるが、西洋に由来する概念を日本語に取り入れるにあたり、漢字を用いて漢語化するという手法が一般的にとられたことは、その受容を容易ならしめたと同時に、ある特定の漢字を訳語としてあてはめたことで、原語には本来なかった含意を持たせていく機会ともなったといえる。そのことは、本書が主題とする「人文学」という概念をとらえる上でも大きな意味を持つといえよう。前掲の陣野論文が論じているように、明治期においては人文学に相当する概念は長く「文学」と称され、そしてそれは西洋のliteratureに対応する訳語として用いられた。そしてもともと「文学」という言葉は、古代中国以来の長い歴史を有するものであるということも指摘されているが、最も根源的な概念である「文」という字が本来どのような意味を有していたのかということは、他の論考も含めて必ずしも十分には説明されていない。

 甲骨文字までさかのぼる「文」の意味は、literatureと同様に多義的かつ多層的であるが、以下のような用例をその最も広範な含意として挙げることができる。


 天地を経緯するをこれ文と謂う(『資治通鑑』巻二百一十三、開元十九年三月丙申条)。


 司馬光による評語の一節であるが、「天地を経緯する」とは宇宙の森羅万象を秩序立てるというほどの意味であり、この上なく大きな意義が「文」という言葉に込められている。たとえば「天文」という言葉もこうした意味からの用例であり、今日における理系の諸学問も、本来は「文」という概念に包摂しうるものなのである。こうした言葉を近代学術の一分野に冠することで、そこには伝統的な「文学」という言葉をそのまま引き継いでいるように見えて、実は大きな意味の転換が生じていったということを、本書ではより深く考究することができたのではないかと思う。

 その上で、こうして日本において成立していった近代人文学の学問体系は、その後漢字文化を共有する周辺の東アジア諸国へと伝播していくこととなった。その一端は、第三部に掲載された河野貴美子「中国の近代大学図書館の形成と知の体系――燕京大学図書館を例として」より知ることができるが、まさに学問体系と対応する図書分類が、20世紀に入るとともに伝統的な「経・史・子・集」の四部分類から日本などを参考にした近代的な分類方法へと移行していったことが取り上げられている。こうした学問体系の近代的再編をめぐっては、前掲の新川論文も近代以降の東アジア各地域における大学の学部学科編制を題材に論じており、中国においても近代的な高等教育体制が確立された20世紀初頭に人文系学部の「文・史・哲」の枠組みが成立していったことが指摘されている。まさに本書が主題とする近代人文学の形成は、日本のみにとどまらず、東アジア地域全体において「近代人文学の学知がいかに編制され、アカデミズムにおいてどのように学問が構築されたか」ということにも関わるものといえよう。そうした大きな問題提起にもつながる豊富な成果を含むものであることを最後に紹介して、この小稿を終えることとしたい。(千葉正史 [史学科教員] )


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5. 『白山史学』第62号原稿募集のお知らせ

本会会誌『白山史学』第62号(2026年3月発行予定)の投稿原稿を募集しております。投稿規定は下記の通りとなりますので、ご参照ください。


《論文》

・400字詰原稿用紙縦書で、80枚以内(注:図表を含む)。

・図表は止むを得ないものに限り、5点以内。

・初校は筆者にお願いしますが、校正は誤植訂正に限り、書き直し、追加などはご遠慮ください。

・必ず欧文タイトルを付してください。

・デジタル・データで入稿する場合は、ファイル形式を明記し、他にテキストファイルとA4縦用紙に、54文字×19行で縦書きに打ち出したものを付してください。

《研究ノート》

・400字詰原稿用紙縦書で、30枚程度(注:図表を含む)。その他は論文と同様です。


*《論文》《研究ノート》共に、投稿は会員の方のみに限ります。投稿締切は2025年10月31日(当日消印有効)です。採否については、編集委員会の議を経て常任委員会の責任において11月末頃にお知らせします。

*なお、本会編集担当メールアドレス(hakusanshigaku@gmail.com)への電子投稿(メール添付)を推奨します。

*本誌に掲載された論文等の著作権は本会に帰属するものとします。ご自身の著書に収録するなどの際には、本会にお知らせください。


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6. 編集後記

 『会報』第129号(メルマガ8号)をお送りいたします。本号は、6月28日(土)開催予定の白山史学会第61回大会・第53回総会のお知らせに加え、今年度の活動についても紹介しております。

 今大会では、公開講演を白川部達夫先生および石橋崇雄先生にお願いいたしました。また、研究報告につきましては、小林栄輝氏および岸野達也氏にお願いいたしました。ご多忙の折、講演依頼をお引き受けくださいました白川部達夫先生、石橋崇雄先生、研究報告をお引き受けくださいました小林栄輝氏、岸野達也氏に改めてお礼を申し上げます。

 また、今年度は久方ぶりの懇親会を開催する運びとなりました。是非ともご参加いただけますと幸いです。

 『白山史学』第62号原稿も募集開始となりました。今後とも本会の活動にご理解ご協力賜りますよう、よろしくお願いいたします。                   (企画局長 小森)



2025年4月27日日曜日

『白山史学会会報』第128号 [メルマガ7号] 2025年4月28日

白山史学会会員のみなさま

穀雨の候、会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。『会報』第128号(メルマガ7号)を送らせていただきます。なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)まで、いつでもご連絡ください。

1. 2025年度卒論発表会について

 『会報』第127号(メルマガ6号)でお知らせした通り、今年度の卒論発表会は5月10日(土)午後1時30分〜午後4時15分に開催されます。開催形態は対面とオンライン配信をともに行うハイフレックス方式です。

 対面の会場が決まりましたのであらためてご連絡いたします。対面、オンラインとも事前登録なしでどなたでもご参加いただけます。みなさまのご参加をお待ち申し上げております。

・対面開催の会場:6218教室(白山キャンパス6号館2階)

・オンライン配信のミーティング・リンク:https://x.gd/pt6ON

*白山史学会のオンライン配信にはZoomを使用いたします。

*オンラインで参加される方が当日配布資料をダウンロードするためのクラウドストレージ・アドレスは発表会当日お知らせします。

2. 新刊紹介

メルマガでは、会員が関係する新刊書籍を紹介いたします。今回の対象書籍は、岩下哲典著『黒船来航絵巻《金海奇観》と幕末日本』(中央公論美術出版、2024 年)です。なお、雑誌『白山史学』には会員書籍に関する書評も掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

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 早稲田大学図書館所蔵の≪金海奇観(きんかいきかん)≫乾坤二巻(以下、「」引用以外の地の文では「奇観」とする)は、嘉永7年(1854)第2回目のペリー来航の諸相を細かく画像化したものである。編者は仙台藩の儒学者・砲術家大槻磐溪である。「奇観」は、磐溪が仙台藩主伊達慶邦に提出したものである。

 「奇観」については、早稲田大学図書館古典籍総合データベースで画像を確認することができるほか、著者がペリー来航160周年を記念して「奇観」を忠実に復刻した雄松堂書店(現丸善雄松堂)から解説付きで限定100部で刊行したものがある。雄松堂から出された復刻版を用いて解説したVTRを東洋大学のHPで模擬授業(web体験授業)として鑑賞することもできる。また、「奇観」や作者磐溪に関しては、あとがき(165頁)に嶋村元宏氏の一連の研研究成果などを紹介されている。最新の磐溪研究として、小岩弘明「大槻磐溪―幕末明治を駆け抜けた武人学者」(一関市博物館編『学問の家大槻家の人びと 玄沢から文彦まで』(吉川弘文館 2024年11月)が挙げられる。ほかに、異国船絵巻について、大久保利謙監修・松平乗昌・岩壁義光解説『黒船来航譜』が網羅的である。その他、多くの研究書を用いて本著は構成されている。

 本著の構成は以下の通りである。

 プロローグ

第一幕 ≪金海奇観≫にかかわった人やその写本など

第二幕 大槻磐溪≪金海奇観≫を読む

第三幕 「ペリー来航予告情報」と大槻磐溪

第四幕 一九世紀の日本と国際関係―ペリー来航前後の世界―

エピローグ

参考文献


 以上を踏まえ、本著を「岩下流『江戸時代対外交流史概説』」(4頁)という位置づけをしている。

 著者は本著を通じて、「一九世紀の日本人、大槻磐溪の生の声を」「一九世紀の日本と国際社会を理解したうえで、直近でいえば『ペリー来航予告情報』を知ったうえで、≪金海奇観≫を賞味していただきたい」(4頁)と述べている。

 ここから、各幕を紹介していくこととする。

 第一幕で、「奇観」の製作の役割が示されている。磐溪は編者であり、序文を書き、かつ全編にわたって、「タイトル」や「識語」などのコメントも施している(6頁)。幕府儒者林家の家塾長河田迪斎が題字を揮毫している。河田はメンバーの中で、最もペリーに近い場所にいたということで重要な人物である。ペリーが献上した蒸気機関車模型の客車に真っ先に乗って西洋文明を体験しただけでなく、冷静に観察した(7頁)。近江膳所藩儒関藍梁は、乾巻の第二図「横浜応接所真景」を描いているが、絵師ではないのでどことなく稚拙な雰囲気もある。それゆえ関が描いた乾巻のペリーとアボットの肖像画は、のちに磐溪プロデュースで美作津山藩御用絵師鍬形赤子との合作となったのであろう。なお、坤巻の跋文を認めたのは関である。実に能書家である(8頁)。信濃松代藩医にして絵師の高川文筌は日米和親条約締結交渉日本側全権伊澤美作守政義の家来で、医師として応接所に赴き、内部で行われた交渉を見ていくつかの作品を残しており、文筌の絵は「奇観」にも収録されている。乾巻第三図の応接所の「伊澤用人 同警固人」の用人か警固人のどちらかが文筌(おそらく警固人)であろう。全権の付医師が応接を描くということであり、ベストポジションから「奇観」に絵を提供した人物である(9頁)。鍬形赤子は、「奇観」の関が描いたペリーとアダムスの衣服等が実際とは違ったため、改めて書き直したと磐溪が「識語」に書いている。結局、ペリー、アダムス、アボット、ブカナン、テンスル(号令官)の五人を描いている(10頁)。赤子晩年の作品ということになる(11頁)。さらに、箕作阮甫や宇田川興斎といった津山藩関係者と磐溪との親密な情報交換の結果「奇観」が出来上がったのである(12頁)。

 磐溪の「奇観」に最も近い写しは加賀藩儒者西板成庵が編集し旧蔵していた江戸東京博物館所蔵の「奇観」である(14頁)。西坂が何を基準に原本から画像を抜粋したのかはよくわからないが、成立が日米修好通商条約を締結交渉のため江戸に出府したハリスが老中首座堀田正睦に対して大演説する前の時期にあたっており、改めてペリー来航と日米和親条約が見直されたことが理解される。西坂は天保二年(1831)に昌平黌に学び、磐溪と親交を結んでいた可能性があり、こうした背景も模写する背景にあった(15頁)といえよう。ほかにも多くの写しがあるが、昌平黌関係者の儒者たちによって写し伝えられたものや、磐溪と蘭学者との親交による蘭学者たちによって写し伝えられた(15頁)ものが確認できる。よって、今後も「奇観」の写しが見つかる可能性はある(17頁)。

 第二幕は、本著のメインで各場面の解説がなされている。「奇観」乾の巻の第一図は、正体不明の「画師辻探昌」によるものと考えられ、横浜の「権現山」を手前にして、中景に「横浜」村と「応接所」、本牧鼻まで、遠景には「房州鋸山」を描いており、その沖合にはペリーの九艘の艦隊が描かれている。図の上部に各艦の入港日付、砲門数、乗組員数、艦種、艦長のデータが記されており、艫にはアメリカ合衆国の国旗が翻っている。艦隊の手前には「神奈川宿」、その警備担当の明石藩陣屋が確認できる。さらに左には「新宿」「子安村」「潮田」の地名が確認できる。

 第二図は、「横浜応接真景」で関が描いたものである。これは安政元年(1854)2月10日の初上陸の様子を同年3月上旬に描いたものであると推測される。右側の富士山はこの図の位置に実際には見えないことから、構図のバランスをとったものとみられる。

 第三図は「応接所見取り図」で、作事の指図を用い、上陸当日の様子を加味した、きわめて正確な平面図となっており、応接所の概要を藩主に説明するには大変便利である。

 第四図は、ポーハタン号の図である。第五図はなぜか二本マストの「魯西亜国蒸気船」である。喫水線より下の部分、船底まで描いた珍しい図である。本図は、長崎の版本からの筆写であり、米魯の比較のために収録したものである。第六図はサスケハナ号、第七図はマセドニア号、第八図はサプライ号、第九図は「バッテイラ」を描いている。

 第十図は「上官之者」「軍卒之長」「楽人」「銃手/号令官」「エドガー・ヨーリング」の五人の人物が描かれている。オランダ系アメリカ人エドガーとオランダ語が話せる日本人との間の橋渡し役を担ったので、エドガーが単独で描かれたものとみられる。

 第十一図は、幕府に献上された「騎兵軍刀」、第十二図は「Colts Pistol/六響手銃」で、応接掛の目付松崎万太郎がペリーから贈られたコルトネイビーの実物を見て磐溪が写し取ったものである。第十三図は「六響手槍期間解剖図」で、大槻礼助が写したものである。第十四図は「火薬罐/ゴウヤク入レ」の「正面」「裏面」「側面」および「上面」を描いたものである。第十五図は、銃の工具を三面から見た図である。第十六面は「鉛丸鋳/ナマリマイカタ」で、弾が製造できなければ実用品とはならないため、重要な工具である。第十七図は「ボート ホウヰッスル縮図」で、野戦砲にもなるボート積載用大砲の図であるが、遠近法に描き馴れていない部分が見られる。

 最後に磐溪の跋文に、羅森の七言詩が二首掲載されている。著者は「磐溪は、羅森との交流から東洋世界の共通言語である漢文・漢語に信を置くことができたのではないだろうか」(67頁)と締めくくっている。

 次に、坤の巻についてみていく。第一図は乾巻の第一図と呼応する。右端の海岸に真田・小笠原・井伊家の陣屋、その手前に全力で漕ぎ手が漕ぐ一艘の小型和船、横浜応接所、陣屋、本牧鼻を中景に描いており、本図では乾図で見られた地名の記入は見られない。この図は安政元年2月10日の第一回交渉時のアメリカ全権の上陸図で、ペリー、アボット以下軍楽隊・歩卒に至るまで640人あまりが上陸したことを記している。

 第二図は2月22日明け方にバンダリアとサウサンプトンが下田港を目指して出航した場面である。この二隻の船は下田港が船舶の寄港地として適当であるか調査するために派遣したものである。第三図は、2月26日、ブキャナン艦長指揮下の蒸気軍艦サスケハナ号がアメリカに帰国する図としている。第二図は日本側にもかかわる事実であったが、第三図は、アメリカが日本側に真実を告げなった点で異なる。しかし、どちらも艦隊編成の変更であり、日本側にとって関心事であった。第四図には、蒸気軍艦ミシシッピ号が描かれている。

 第五図は、ボート砲を船首に積載した短艇図で側面図である。船の描き方が第四図と共通しているので、絵師は辻昌探の可能性もある。第六図は、アメリカ製十二ポンドボートホウィッスル縮図である。乾巻の第17図の図とほぼ同じであるが、砲口の描写、後輪近くの縄の結び形状などに微妙な違いがみられる。ボート砲は多くの日本人砲術家が注目することとなった。

 第七図は、四角の枠で囲った中に胸から上までの人物図を描いたものが10人分、および全身図が1人分、合計11人分が描かれている。

 第八図から第十一図までは、鉄道関係の一連の図である。第十二図は電信機である。ペリーの献上品として、確実なものはこの電信機と国立科学博物館に所蔵されている天秤くらいで、ほかはほとんどが消失してしまっている。

 さらに、膳所藩儒関藍梁の跋文がつく。磐溪と関はお互いに持っている情報を突き合せ「奇観」を作成したものとみることができ、もとは一巻本であったことが知られる。

 第三幕は、磐溪や津山藩医箕作阮甫の動きをまとめたものである。ペリー来航予告情報は、ペリー来航の一年前に長崎のオランダ商館長が長崎奉行にリークした3つの情報である。「オランダ別段風説書」が最初である。次に、バタビア総督による長崎奉行宛公文書、最後が日蘭通商条約草案である。このほか、口頭による説明もあったと考えられるが、文章では残っていない。公式に情報にアクセスができたのは、長崎奉行関係者と老中およびその関係者に限られた。しかし、老中首座阿部正弘の政治的判断によって、最初の別段風説書が、琉球・長崎防衛の外様大名や江戸湾防備の浦賀奉行、譜代大名に内密に伝達された(83―84頁)。

 磐溪は昌平黌や林家との深いパイプがあり。こうした人脈を通じてペリー来航情報を入手して「奇観」を作成したと考えられ、磐溪の情報収集の成果が「奇観」ともいえる。蘭学者たちが蛮書和解御用から蕃書調書に格上げしようとすると、昌平黌の儒者らが黙っていない。ペリー来航後とは言え、箕作阮甫が切望した蕃書調書設立に昌平黌の儒者や漢学者らが反対しなかったのは、磐溪と阮甫とのつながりがあったからにほかならないだろう。このことが「奇観」の背景に垣間見えるのである(103―104頁)。

 第四幕は、ペリー来航前後の日本と国際関係について論じたものである。近世日本の対外関係は、いわゆる「鎖国」であり、その実態は、四つの口(長崎・対馬・琉球・松前)の人・物・金・情報の管理と運用であった。なかでも幕府直轄地長崎の管理と運用は幕府にとって重要であった。「鎖国」の中心課題はキリスト教禁令であり、そのため日本人の海外渡航の禁止と中国・オランダ人との限定的交易、漂流民の送還体制の構築と運用、異国船の通報と警備、中国・オランダによる海外情報の自発的提供が行われた。よって、外交の最前線に立つ者や幕府の要路以外は海外情報を入手できる状態になかった。それでも困難をおかして海外情報を入手したのが蘭学者たちであった(109頁)。

蘭学・洋学の発展は、有用性から医学や天文学から発展したというのはその通りだが、未知の世界(特に西洋社会)をのぞいてみたいという気持ちから、学問的な営為のため、医学・地理学・言語で重要な業績を残したのが磐溪と阮甫であった。両者は「奇観」にもかかわりがある(117頁)。

 ペリー艦隊以前にロシアやイギリス、アメリカなどの接近によって情報は、収集され、まとめられた。漢学者であっても、政治の在り方にかかわるような対外関係や海外の情報はきちんと収集していた。

 ペリーやプチャーチンの来航によって、日本は国際的な競争社会へ入っていかざるを得なくなった。この時、これらの来航情報を仙台藩主に報告するために作成したのが磐溪の「奇観」であった。

当時の言葉になかった「開国条約」や「和親条約」といった用語そのものの妥当性に目を向けていく必要がある。ここには後世の人間のある種の価値観が反映されている可能性があるため、解釈用語によって隠蔽されていた真理が見えてくるのではないかと著者は述べている(142頁)。用語という点に注目すると、いわゆる「大政奉還」の上表も当時の用語に最も近い「政権奉帰」という言葉を用いた方がよく、「王政復古」によって、「大政奉還」が完成するのである。

 江戸無血開城によって「静岡藩」が成立するが、静岡旧藩勤番士(旧幕臣)は石高が平均化され、生活も均一化される中、藩の職制からは分離されて、階層としては最下位に位置づけられた。勤番士たちは明治初期を自らの力で切り開いていかなくてはならなかった。これは大きな社会変革で、この発端が19世紀初頭のロシアの日本接近であり、それによる蘭学・洋学・ナポレオン研究であった。さらに19世紀中葉からのアヘン戦争とオランダによる情報の伝播・開国勧告、さらにペリー来航予告情報とペリー来航だった。

 戊辰戦争で、仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり、磐溪は万延遣米使節団で渡航経験のあった玉虫左太夫に期待した。左太夫の『航海日録』には同じ構造であるはずのホテルの記述が毎日詳しく書かれている。省略してもよさそうなものをそうしない。これこそが、磐溪の望んだアメリカ見聞の記録であった。しかし、同盟軍は大敗し、左太夫は責任を取る形で切腹した。磐溪自身も同盟を支持する文書を書いたことから、咎められ、入牢した。磐溪は、明治4年(1871)に許され、東京に出て余生を送り、明治11年に亡くなった。

 林子平、大槻玄沢、高野長英、小関三英といった東北人は比較的早くから対外的な危機感を持っていた。異国情報、海外情報は、4つの口から江戸に集まり、さらに地方にも運ばれる構造になっていた。各藩がやる気と能力とネットワークさえあれば、そうした情報を入手し、収集して分析して活用すること、すなわち効果的な情報活動が可能であった。

 こうしたことは磐溪の「奇観」乾坤二巻に示され、その世界と背景は前後50年のこの国とそれを取り巻く歴史を詳細に見なければ理解できなかったものといえよう。まさに「奇観」に示されたペリー来航時の記憶は後世に伝えるべき文化財といえるのである。

 以上、本著の内容整理をしてきたが、最後に筆者の所感を述べることとする。近年、歴史学において文字資料のみならず図像資料の解釈が求められるようになってきた。本著は「奇観」の隅々まで図像資料を解釈し、さらに先行研究や文字史料と突き合わせて生み出されたものである。図像資料の解釈方法の実践がなされたのが本著であるといえよう。ペリー来航時に写真が日本では浸透していなかったため、絵画による情報は極めて重要であり、画家たちの力量が大いに試されたものと推察できる。また、大槻磐溪や箕作阮甫を通じて、近世の知識人の思考を垣間見ることができた。対外的な危機を迎えた時の対処方法が見られ、現在にも通じるものがある。「岩下流『江戸時代対外交流史概説』」の奥深さを改めて痛感させられたのが本著である。  

(塚越俊志[東洋大学非常勤講師])



2025年4月1日火曜日

『白山史学会会報』第127号 [メルマガ6号] 2025年4月2日

白山史学会会員のみなさま


春光の候、会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。『会報』第127号(メルマガ6号)を送らせていただきます。

なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)まで、いつでもご連絡ください。


*******目次*******

1.2025年度卒論発表会のお知らせ

2.田中文庫選書委員会からのお知らせ

3.白山史学会ホームページに関するお知らせ

4.第61回大会・第53回総会について

5.編集後記

*****************

1.2025年度卒論発表会のお知らせ


2025年度卒論発表会は、5月10日(土)の午後1時半から、対面とオンライン配信をともに行うハイフレックス方式で開催されます。報告者と報告題目は以下のようになっています。

◯日本史分野 伊藤直さん  「島津斉彬と明治維新」       

◯東洋史分野 山田美菜さん 「清代の長江中流域における米穀流通」

◯西洋史分野 夏井颯太さん 「オートヴィル朝シチリア王国の異文化共生と宗教的寛容」


対面参加の会場については、決定後にあらためてお知らせいたします。

対面、オンラインとも、事前登録なしでどなたでもご参加いただけます。

会場にお越しになることが難しい方も、もしよろしければぜひオンライン配信をご視聴ください。オンライン配信のURLは以下です。


https://x.gd/pt6ON


・白山史学会のオンライン配信にはZoomを使用いたします。

・オンラインで参加される方が当日配布資料をダウンロードするためのクラウドストレージ・アドレスは発表会当日お知らせします。


各報告の要旨は以下の通りです。

◯ 伊藤直「島津斉彬と明治維新」 

 江戸後期、欧米列強の接近とアヘン戦争での清の敗北が日本に危機感をもたらし、鎖国政策が揺らいでいた。島津斉彬は薩摩藩11代藩主として、西洋技術の導入や幕政への働きかけを行い、富国強兵を目指した活動を行っていた。そこで本論文では、斉彬の行動が日本の幕末期、延いては明治維新にどう影響したのかを調査した。斉彬は、集成館事業により薩摩藩の工業技術を強化した。これが明治維新期に蒸気船保有数で優位性を生み、軍事・物流面で貢献した。また、琉球での異国船対応やペリー来航では、幕府へ提言を行い、その人脈を駆使し、影響力を発揮した。特に琉球問題に対する斉彬の柔軟な外交戦略は特筆すべきものがあり、その対応が後の和親条約に反映された。このことから、斉彬の政治活動は彼の没後の明治維新への道を開いたと評価した。

 斉彬の技術導入と政治的活動は近代化の基盤を築き、その思想は死後も継承された。よって、斉彬の行動は明治維新の礎となったと結論付けた。


◯ 山田美菜「清代の長江中流域における米穀流通」

 清前半期の湖南・湖北両省、通称「湖広」は、穀物生産地として長江下流域に主穀を移出した反面、食糧不足が生じ他の土地から米穀を搬入する状況が見られた。特に湖北省は地理的な要因によって米穀ではなく棉花・棉布が主要な生産品であり、湖北省は周辺の米穀生産地である湖南・四川省の三省間で棉布・米の売買による相互補完関係を成立させることで自省内に食用米を流通させていた。そうした地域市場圏があったにもかかわらず、湖南地域も含めた湖広の米不足は解決していなかった。

 本卒業論文では、湖広における米穀需要の要因は自然条件ではなく米穀市場の構造に素因があると考え、清初から中期にかけての市場と当局による食糧政策にもとづく米穀流通の変化に注目して湖広の米穀需要の原因を研究した。

 3章からなる卒論での分析作業を経て、清前半期の湖広における米穀需要の原因は、銀の流出による銭貴穀賤現象、および国家による集中買い付け行為にあると結論付けた。


◯ 夏井颯太「オートヴィル朝シチリア王国の異文化共生と宗教的寛容」

 地中海の中心に存在するシチリア島は、古くはギリシアやローマ帝国、6世紀にはビザンツ帝国、9世紀にはイスラーム王朝の支配下に置かれ、多様な民族が根付いていた。その中で1130年に成立したオートヴィル朝シチリア王国は、ノルマン人支配の下で多様な民族が共生した多民族国家であり、カトリック文化、ギリシア文化、イスラーム文化が混在する独自の文化が形成された。

 王国の特色として、異教徒・異邦人に特権を認め保護する方針を採っていたことがあり、このことから、シチリア王国研究では王国に宗教的寛容のイメージが付与されていることが多い。しかし実際に研究を進めると、王国の対異教徒・異邦人政策は宗教的寛容の言葉のみで片付けられるものではなく、実利的な目的の下で施行された政策であったことがわかる。

 そこで本研究では、王国に付与された宗教的寛容のイメージと実際のシチリア王国の制度・社会との乖離に着目し、シチリア王国の多民族共生と宗教的寛容の実像を捉えていく。


2. 田中文庫選書委員会からのお知らせ


選書委員会では、史学史・歴史学理論に関する書籍を「田中文庫」として日々収集しています。蔵書リストなど詳細は白山史学会ホームページ「田中文庫」をご覧ください

(https://hakusan-shigaku.org/library.html)。

田中文庫で2024年度に新規に購入した図書のうち、以下2点について、その内容を史学専攻院生が簡潔に紹介いたします。


◯會田康範・駒田和幸・島村圭一編『「歴史的思考」へのいざない 人びとをつなぐ歴史の営み』戎光祥出版 2024 年 

………社会科は暗記科目である――歴史学を専攻していれば、このように考えることはほとんどないだろうが、一般的には依然として暗記科目として認知されている。しかし、平成29年(2017)に改訂された学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」の導入が謳われて以降、各教科で思考力の育成を重視した授業展開がめざされるようになっている。本書は、このような学校教育の変化を受けて、令和2年(2020)から開催されてきた「歴史的思考研究会」の成果をもとにした書籍である。内容は、歴史的思考について考える際に意識するべきことや、歴史的思考力を育成するための授業実践、これまで歴史教育に携わってきた方々へのインタビューなどがまとまっており、歴史系の科目を担当する学校教員や教員をめざしている学生へ向けたものとなっている。けれども、ほんらい教育とは学校教育に限定されるものではないだろう。学習指導要領でも図書館・博物館の活用がめざされているように、司書・学芸員など、広く歴史教育に携わる人々に手に取っていただきたい書籍である。(岸野)


◯小澤実・佐藤雄基編『史学科の比較史 歴史学の制度化と近代日本』勉誠出版、2022年

 本書は修史事業が開始された1869年から1945年に至るまでの、近代日本における史学科(歴史研究機関を含む)の歴史を比較史的アプローチから史学科の展開と特徴について述べたようとしたものである。

 これまで史学科を対象とした研究は大学史や所属する著名な歴史家の伝記研究などによって一定の情報が蓄積されている。これらの先行研究の成果を踏まえ、本書では東京帝国大学、同史料編纂所、京都帝国大学、東北帝国大学、九州帝国大学、京城帝国大学・台北帝国大学・建国大学、東京商科大学(現一橋大学)、広島文理大学(現広島大学)、早稲田大学、慶応大学、立教大学、龍谷大学、皇典講究所・國學院大學の14大学2研究機関を取り上げ、それぞれの大学のカリキュラムや卒業者数など具体的な史料をもとに、各大学における史学科の変遷と史学科卒業生が果たした役割などを論じている。各大学の分析軸は大学ごとの特色を反映しているため、一定ではない。しかし、いくつかの大学の史学科の在り方を比較してみると歴史学を教える教員育成のための研究大学であった東京帝国大学(および京都帝国大学)の在り方と後続の帝国大学の抱えた課題、教育の「大衆化」によって史学科の学生たちによるコミュニティから作られた独特の「研究室」カルチャーが明治末期に構想された「研究室」とは形を変えながら、現在まで続いているなど興味深い史学科の歴史を知ることができる。

 本書は明治~昭和期の教育者や大学史について学びたい人のみならず、同時期における日本の歴史教育や史学科で身に付けた力をどのように社会に活かすのか、その道に迷っている学部生にも役立つ書籍であろう。(林)


3. 白山史学会ホームページに関するお知らせ


白山史学会ウェブサイトでは、これまでに刊行された『白山史学』掲載論文の一覧や、今後の活動予定、過去のメルマガ(会報)等を掲載しています(https://hakusan-shigaku.org/index.html)。お手すきのときにぜひご覧下さい。なお、サイトの安全性を高めるため、SSLサーバー証明書を導入し、URLをhttpsに変更しました。


4.第61回大会・第53回総会について


白山史学会第61回大会および第53回総会は、6月28日(土)午後1時半からハイフレックス方式で開催いたします。報告タイトルや要旨、会場、オンライン参加用のURLなど、詳細は次回以降のメルマガであらためてお知らせしますが、ご報告・ご講演いただくのは以下の方々です。


◯研究報告

 岸野 達也 さん [日本中世史、大学院博士後期課程]

 小林 栄輝 さん [中国古代史、大学院博士後期課程]


◯講演

 白川部 達夫先生(東洋大学名誉教授) 

 石橋 崇雄先生(元国士舘大学教授、元東洋大学非常勤講師)


5.編集後記


会報127号をお送りします。今号では2025年度卒論発表会、第61回大会・第53回総会の告知を主に掲載しております。白山史学会ウェブサイトでも『白山史学』掲載論文の一覧に加え、過去のメルマガのアーカイブがご覧いただけるようになりました。ご参考となりましたら幸甚です。今後とも会員の皆さまのお力となれるよう成長を続けて参りますので、よろしくお願い申し上げます。(企画局長 小森)

2024年11月10日日曜日

『白山史学会会報』第126号[メルマガ5号]2024年11月11日

 白山史学会会員のみなさま


立冬の候、会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

『会報』第126号(メルマガ5号)を送らせていただきます。

なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)までいつでもご連絡ください。


*******目次*******

1.第61回大会・第53回総会のお知らせ

2.会務報告(今年度の活動状況)

3.田中文庫選書委員会からのお知らせ

4.白山史学会ホームページに関するお知らせ

5.会計報告

6.新刊紹介:岩下哲典著『山岡鉄舟・高橋泥舟』(ミネルヴァ書房、2023 年)

7.編集後記

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1.第61回大会・第53回総会のお知らせ

白山史学会第61回大会および第53回総会は、2025年6月末の土曜日の開催を予定しております。詳細につきましては、来春、メルマガ(会報)やホームページにてご案内さしあげます。どうぞ奮ってご参加ください。今後とも本会の活動にご支援を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

2.会務報告(今年度の活動状況)

◯第60回大会・第52回総会(2024年6月29日:ハイフレックス開催)

・研究報告 

「『播磨国風土記』と「郡的世界」の実像―播磨国揖保郡を中心として―」

東洋大学大学院科目等履修生 小倉草氏

「オスマン帝国における「3 月 31 日事件」(1909 年)に関する一考察―連隊上がりの将校について―」

東洋大学人文科学総合研究所客員研究員 矢本彩氏

・公開講演

「スパルタ 神話と実像」                                   東洋大学文学部教授 長谷川岳男氏

「紫式部と実資・道長」                      国際日本文化研究センター名誉教授 倉本 一宏氏

◯常任委員会定例会(対面)

 7月22日[月](第1回常任委員会)

10月24日[木](第2回常任委員会)       

◯常任委員会の構成

会長:鈴木道也

副会長:千葉正史

庶務局長:岸野達也(D1)

編集局長:林萌里(D2)

会計局長:船山日向子(M1)

企画局長:小森望夢(M1)

選書小委員会代表:水谷祐文(M1)

月例会担当部局代表:水谷祐文

庶務:水谷祐文、山内菜々子(学部2年:日本史)、大山恭平(学部2年:東洋史)、由木貴(学部2年:西洋史)

会計監査:後藤はる美、木下聡

3.田中文庫選書委員会からのお知らせ

選書委員会では、「田中文庫」として史学史・歴史学理論に関する書籍を日々収集しています。収集にあたっては、会員の皆さまからの御意見や収集希望書籍を受け付けております。専攻を問わず、史学史・歴史学理論などに関する書籍についてお心当たりがございましたら、下記の住所、または白山史学会事務局メールアドレス(hakusanshigakukai@gmail.com)までお知らせ下さいますようお願いいたします。

なお、蔵書リストなど詳細は白山史学会ホームページ「田中文庫」をご覧ください(http://hakusan-shigaku.org/library.html)。

住所:東京都文京区白山5-28-20

東洋大学文学部史学科共同研究室内白山史学会選書委員会

4.白山史学会ホームページに関するお知らせ

白山史学会ホームページでは、これまでに刊行された『白山史学』掲載論文の一覧や、今後の活動予定、過去のメルマガ(会報)等を掲載しています(http://hakusan-shigaku.org/index.html)。

お手すきのときにぜひご覧下さい。

5.会計報告

先日開催された第52 回総会において2024年度一般会計予算案が承認されましたので、会員の皆さまにご報告申し上げます。

◯2024年度白山史学会一般会計

収入の部

繰越金:¥6,684,225

学生会員費:¥834,000

一般会員費:¥224,000

雑誌売上費:¥2,000

広告費:¥20,000

銀行利息:¥50

収入合計:¥7,764,275

支出の部

『白山史学』印刷費:¥410,245

会報等印刷費:¥10,000

事務費:¥20,000

通信連絡費:¥30,000

銀行等振込手数料:¥3,000

月例会費:0

大会費:¥70,000

会議費:0

インターネット関連諸経費:¥7,000

『白山史学』バックナンバーPDF化経費:¥12,982 

納税:¥10,000

支出合計:¥573,227

次年度繰越金:¥7191,048

◯2024年度白山史学会特別会計決算

収入の部

繰越金:¥595,694

銀行利息:¥6

雑収入:¥180

収入合計:¥595,880

支出の部

書籍代:¥10,000

文具代(ラベル代等):¥5,000

支出合計:¥15,000

次年度繰越金:¥580,880

6.新刊紹介

メルマガでは、会員が関係する新刊書籍を積極的に紹介していきたいと考えています。今回の対象書籍は、岩下哲典著『山岡鉄舟・高橋泥舟』(ミネルヴァ書房、2023 年)です。

なお、雑誌『白山史学』には会員書籍の書評も掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

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 当書は、勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の幕末三舟の内、鉄舟と泥舟を二舟として取り上げた評伝である。著者の岩下哲典教授は、当書執筆までに『高邁なる幕臣高橋泥舟』『江戸無血開城』『江戸無血開城の史料学』などの関連書籍を執筆しており、当書はこれらの延長線上に位置するといえよう。

 内容は、鉄舟と泥舟の生涯に渡る解説は勿論、第6章にて禅・仏教、第7章にて書と武芸、第八章にて家族と弟子・知人たちと、二舟にとって重要な事項について幾つかの章を割り当てている。また、はしがきのii頁を読むと「鉄舟・泥舟を少なくとも海舟ぐらいにしたいと思っている」とあり、当書の目的が二舟の重要性を再評価してもらいたいということが理解できる。二舟の関係性として、15頁に「泥舟が表の時は鉄舟が裏方、鉄舟が表に出る時は泥舟が裏方、そうして義兄弟で激動を乗り切った。その結節点には、泥舟妹にして鉄舟妻英子がいた」とある。現在では江戸無血開城の際の活躍により、鉄舟が泥舟よりも前に出ている印象を受けるが、この一文は二舟の関係性を如実に表している。

 泥舟の重要性については他にも、江戸無血開城の時期において、35頁にて「徳川家の当主慶喜の絶対的信頼のもとにこの難局に当たったのは泥舟である。もっといえば泥舟こそが、海舟や鉄舟の働く場を提供したのである。なにしろ慶喜の信頼するのは泥舟ただひとりだったからである。すなわち、慶喜の信頼の元、慶喜の中奥には泥舟が、江戸城の大奥には天璋院と和宮が、表には海舟がいた。そのような役割分担になったということであろう」とある。中奥(なかおく)とは、「江戸城殿舎の表の一部で、将軍の居住する区域」(『日本国語大辞典』)であり、表(おもて)とは「謁見その他の儀式を行う広間と、日常諸役人が詰めて執務する諸座敷などからなり、幕府の中央政庁としての機能をもっている」(『国史大辞典』)場である。江戸無血開城は、関連した人物各々が各々の立場から役割を分担して成し遂げた業績といえよう。

 終章186頁では、読者にとって幕末三舟の中心となる人物は誰であろうか、といった文章で本文を終了させている。当書を読み、各々が各々毎に誰が中心であるか決めていただきたい。(和田勤 [本学会会員] )

7.編集後記

会報126 号をお送りします。本号では、会務報告や先日の総会で承認された2024年度予算に加え、新刊紹介も掲載いたしております。今後とも白山史学会の活動にご理解ご協力いただきますよう、よろしくお願いします。 (企画局:小森望夢)


2024年6月3日月曜日

『白山史学会会報』第125号[メルマガ4号]2024年6月4日

白山史学会会員のみなさま

会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

『会報』第125号(メルマガ4号)を送らせていただきます。


なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)までいつでもご連絡ください。

*******目次*******

1. 白山史学会第60回大会・第52回総会のお知らせ

2. 会務報告

3. 田中文庫選書委員会からのお知らせ

4. 白山史学会ホームページに関するお知らせ

5. 常任委員選挙に関するお知らせ

6. 新刊紹介

7. 『白山史学』第61号原稿募集のお知らせ

8. 編集後記

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1. 白山史学会第60回大会・第52回総会のお知らせ

白山史学会第60回大会・第52回総会は、6月29日(土)の午後1時半から対面およびオンライン配信のハイフレックス方式で開催されます。プログラムは以下の通りです。

◯公開講演

「スパルタ―神話と実像―」  東洋大学文学部史学科教授 長谷川 岳男氏

「紫式部と道長・実資」 国際日本文化研究センター名誉教授 倉本 一宏氏

◯研究発表

「『播磨国風土記』と「郡的世界」の実像―播磨国揖保郡を中心として―」

                     東洋大学大学院科目等履修生 小倉 草氏

「オスマン帝国における「3月31日事件」(1909年)に関する一考察

                          ―連隊上がりの将校について―」

                    東洋大学人間科学総合研究所客員研究員 矢本 彩氏

◯会場:6317教室(6号館3階)

◯配信URL: https://meet.google.com/kse-tknq-itk

・対面、オンラインとも事前登録なしでどなたでもご参加いただけます。会場にお越しになることが難しい方も、もしよろしければぜひご視聴ください。なお、オンラインで参加される方が当日配布資料をダウンロードするためのクラウストレージトレージ・アドレスは当日お知らせします。研究発表の要旨は以下の通りです。

[小倉報告要旨]

 古代の播磨国は、倭王権の中枢部である畿内の西の周縁部にあり、畿内と吉備や出雲等の間に位置し、瀬戸内海を通じて北九州や朝鮮半島へも繋がるという場所に位置していた。揖保郡は播磨国の西部にあり、瀬戸内海に面しており、『播磨国風土記』に渡来の人々を始めとした列島各地からの移住記事が多くみられる地域である。揖保郡の律令制下の郡的世界の実像を、『播磨国風土記』と考古学の成果をもとに探った。

 『播磨国風土記』では、里によって記される氏族は異なり、揖保郡全域を統括しているような氏族は見られないことから、里ごとに祖先の系譜が異なる氏族が居たことが窺われた。さらに、里の記載順から、3つの群に分かれて支配されていた可能性が高いことが推定されたが、地形や古墳の状況もそれを裏付けるものであった。さらに、古墳や古代寺院の動向から、7世紀後半から8世紀の初めごろには、複数の郡内における最有力氏族と多くの中小氏族が各里に並立していたことが推定された。

 これらのことから、揖保郡は一括支配されていたのではなく、3つの群に分けて行政支配され、3つの群の中においても複数の渡来系を含む有力な氏族が並立していたという郡的世界であった可能性が高いことが導き出された。これは、栄原永遠男氏が、播磨国賀茂郡で、既多寺大智度論の知識にみられる氏族の配置から、針間国造・針間直は4つの小集団に分かれ、それぞれ他氏と階層的な関係を結び、賀茂郡内に地域的に分かれて盤踞していたことを指摘したことと同様の結果と言える。また、7世紀後半に最有力な古墳が築造された地域の多くでは、6世紀の後半頃には前方後円墳や渡来系の石室や副葬品を持つ古墳、7世紀には有力な古墳が造られ、その後も競うように各里で古墳群や寺院が造られている。これは、森公章氏が指摘した、律令国家成立以前から当該地域に歴史的支配を築いていた在地の中小豪族が拮抗するという多極的な郡的世界が展開されていたことも窺える結果であった。

 『播磨国風土記』が編纂された時期には、揖保郡は3つの群に分割して行政支配されていた可能性が高いことが分かったが、孝徳天皇の時には宍禾郡が揖保郡から分割され、中世には揖東郡と揖西郡の2つに分かれている。今後、この郡の変遷と当時の地域支配体制との関連について調べていくとともに、播磨国の他の郡についても同様に郡的世界の実像を探っていきたいと考える。

[矢本報告要旨]

 オスマン帝国(1299頃~1922年)で、1908年7月に青年トルコ人革命が発生した。この革命により、憲法の復活が宣言され、第二次立憲政(İkinci Meşrutiyet)がはじまった。この革命の主導者は、青年トルコ人であり、「統一と進歩協会」所属の一部の将校だった。青年トルコ人とは、憲法の復活を目指す若い知識人を指す。「統一と進歩協会」による革命後の政治体制は、必ずしもすべてのオスマン臣民に受け入れられたわけではなかった。革命直後から、デモやストライキという形でその不満が表面化していた。

 1909年4月、帝都イスタンブルで「3月31日事件(31 Mart Olayı)」が発生した。先行研究において、この事件は現状に不満を抱く兵士の反乱と認識され、先の青年トルコ人革命に対する「反革命」という評価も得てきた。事件の首謀者として処刑されたのは、デルヴィーシュ・ヴァフデティ(Derviş Vahdeti, 生没1870-1909年)である。彼は『火山(Volkan)』紙の出版権所有者であり、主筆を務めた。『火山』紙がシャリーアを重視したため、事件が「イスラーム主義」によるものとみなされることもあった。しかしながら、同事件は「イスラーム主義」のみに起因するものではなかった。多様な立場の人々が関わっていたため、先行研究では、事件の原因について大きく三つに分けて論じられてきた。一つ目が「統一と進歩協会」と彼らに対抗する勢力による青年トルコ人内部の勢力争い。二つ目がかつてマドラサの学生に課されていた徴兵免除試験の再開問題。そして、三つ目が陸軍内部の部隊再編と大量解雇に端を発する士官学校出身将校と連隊上がりの将校の対立である。

 報告者はこれまで『火山』紙の分析を中心に、ヴァフデティの言動を明らかにしてきた。また「3月31日事件」後の裁判記録の分析から、処罰された者の多くが軍人(36%)であり、特に極刑に処された者の約80%が軍人であったことを指摘した。同事件を決起したのは軍人であり、また事件を鎮圧したのも軍人であったが、先行研究において、連隊上がりの将校に関してはその動向が明らかにされてこなかった。

 本報告では、「3月31日事件」の中で重要な役割を担っていた軍人に焦点をあてる。まず、連隊上がりの将校に関する『火山』紙における評価を明らかにし、また他の定期刊行物や公文書史料を元に、事件前後の連隊上がりの将校らの動向を分析する。同事件の原因ともいわれた士官学校出身将校との対立問題を明らかにする一助とする。

2. 会務報告

今年度の活動状況について、以下の通りお知らせいたします。

◇新入生歓迎講演「歴史学への招待」(2024年4月4日)

・「「山岡鉄舟」とは何者なのか ~私の歩んだ「歴史学」への道のり~」

           東洋大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程 本林 義範氏

◇卒業論文発表会(2024年5月11日)

・「貴族の世の陰と陽 ―陰陽師と女性との関わりから―」  本学卒業生 小森  望夢氏

・「ウマイヤ朝におけるカリフの継承 ―スフヤーン家のカリフ再考―」 

                            本学卒業生 大城  清夏氏

・「ウィリアム・ペンの「聖なる実験」」          本学卒業生 稲坂  夏実氏

◇常任委員会

常任委員会を以下の日程で開催いたしました。第1回(7月28日)、第2回(10月6日)、第3回(11月10日)、第4回(12月8日)、第5回(3月4日)、第6回(4月17日)、第7回(5月24日)。

3. 田中文庫選書委員会からのお知らせ

選書委員会では、「田中文庫」として史学史・歴史学理論に関する書籍を日々収集しています。「田中文庫」の書籍について、選書委員会では会員の皆様からの御意見、収集希望書籍を日々受け付けております。専攻を問わず、史学史・歴史学理論などに関する書籍についてお心当たりがございましたら、下記の住所、または白山史学会メールアドレスまでお知らせ下さいますようお願いいたします。蔵書リストなど、詳細は白山史学会ホームページ「田中文庫」をご覧ください(http://hakusan-shigaku.org/library.html)。

・住所:112-8606東京都文京区白山5-28-20東洋大学文学部史学科共同研究室内 

    白山史学会選書委員会

・E-mail:hakusanshigakukai@gmail.com

4. 白山史学会ホームページに関するお知らせ

白山史学会(http://hakusan-shigaku.org/index.html)では『白山史学』掲載論文の一覧や今後の活動予定等を掲載しております。また機関リポジトリ収録の『白山史学』バックナンバーへのリンクもありますので、ぜひご覧下さい。

本会報[メルマガ]も学会ホームページからバックナンバーの閲覧が可能になりました(https://hakusanshigakukai.blogspot.com/)。


5. 常任委員選挙に関するお知らせ

 白山史学会では、白山史学会常任委員次期候補者の立候補・推薦を総会の二週間前から受け付けいたします。候補者の届け先は下記となっております。なお応募や推薦は総会当日も受け付けます。

【届け先住所・メールアドレス】  

・住所:112-8606東京都文京区白山5-28-20東洋大学文学部史学科共同研究室内 

        白山史学会 

・E-Mail : hakusanshigakukai@gmail.com

6. 新刊紹介

メルマガでは、今後会員が関係する新刊書籍を積極的に紹介していきたいと考えています。今回の対象書籍は、岩下哲典・中澤克昭・竹内良男・市川尚智編『信州から考える世界史』(えにし書房、2023年)です。なお雑誌『白山史学』には会員書籍の書評も掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

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 わたくしごとで恐縮だが、私は2021年5月に伊那へ旅行に行ったおり、たまたま立ち寄った満蒙開拓平和祈念館で、偶然にも語り部定期講演に参加する機会を得た。本書でも触れられているように、このあたりは長野県内でもっとも多い、約8400人が満蒙開拓団として満洲へと送出ている地域である。満蒙開拓平和祈念館は、満蒙開拓の歴史を忘れないために、定期的に当事者となった方の講演会を開催している。

 さて、3年経った今でも忘れられない、「2歳のときの話をしろと言われても無理」という語り部の衝撃発言があったこの講演会では、満洲での生活とロシア進攻からの逃避行について語られた。特に印象的だったことは、満洲での生活状況を話すなかで、他民族のことにいっさい触れられなかったことであった。満洲国は「五族協和」をスローガンに掲げていたものの、その実態の一端が垣間見えたように思われた。

 このように信州は、大陸との関係が深く、さらには記憶と忘却とが混在した特徴的な地域である。その信州を起点として世界の歴史との関係を紹介する本書は、ともすれば忘れがちな「世界」の存在に、あらためて目を向けさせてくれるものといえよう。

 本書は、「古代・中世」・「近世」・「近代」・「現代」の4つに時期を区分しつつ、それらのなかで特徴的な、ヒト・モノ・できごとを取り上げ、世界とのかかわりに留意しながら紹介するというスタイルをとっている。特に「です・ます」調の文体を採用している点が特徴で、幅広い読者に語り掛けていくという姿勢を貫いている。

 「はじめに」で、「本書を読まれる皆さんにお願いしたいのは、自分のこととして、地域の歴史をとらえていただきたい」と注意を促しているように、多くの章では、地域の歴史を起点にしながら、現在に生きる私たちがどのように歴史と向き合っていくかということを考えていけるような内容となっている。例えば、岩下哲典「豊臣秀吉の「村切り」と「たのめの里」」の章では、JR中央本線小野駅近くにある小野神社と矢彦神社が小川を挟んで両隣にあるのに、小野神社は塩尻市北小野地区だが、矢彦神社は同所よりも南にある唐沢川以南の辰野町小野地区の飛び地となっていると紹介している。そしてその原因は豊臣秀吉による「村切り」にあるのではないか、として現代と過去とを結びつけていく。

 率直に言って、私は本書で書かれていることが、知らないことばかりで非常に新鮮であった。そして今まで漫然と信州へと行って見てきたものが、実は非常に歴史的な経緯の結果として存在していることに、いまさらながら気づかされた。欲を言えば、一部の著名人ではなく、信州に住む人びとがどのように生活してきたかについて、もう少し掘り下げれば、より多くの読者の共感や興味を引き起こせたのではないかとも思う。にもかかわらず、本書が扱う内容は幅広く、読者に歴史に興味を持ってもらうための役割を大いに果たしていると思う。本稿を読まれた方はぜひ、同書を手に取って、現在から地域の歴史に触れ、世界とのかかわりについて、考えを巡らせてもらいたい。 (中村祐也[庶務局長])

7. 『白山史学』第61号原稿募集のお知らせ

 本会会誌『白山史学』第61号(2025年3月発行予定)の投稿原稿を募集しております。投稿規定は下記の通りとなりますので、ご参照ください。

《論文》

・400字詰原稿用紙縦書で、80枚以内(注:図表を含む)。

・図表は止むを得ないものに限り、5点以内。

・初校は筆者にお願いしますが、校正は誤植訂正に限り、書き直し、追加などはご遠慮ください。

・必ず欧文タイトルを付してください。

・デジタル・データで入稿する場合は、ファイル形式を明記し、他にテキストファイルとA4縦用紙に、54文字×19行で縦書きに打ち出したものを付してください。

《研究ノート》

・400字詰原稿用紙縦書で、30枚程度(注:図表を含む)。その他は論文と同様です。

*《論文》《研究ノート》共に、投稿は会員の方のみに限ります。投稿締切は2024年10月31日(当日消印有効)です。採否については編集委員会の議を経て、常任委員会の責任において11月末頃にお知らせします。

なお、本会メールアドレス(hakusanshigakukai@gmail.com)への電子投稿(メール添付)を推奨します。

*本誌に掲載された論文等の著作権は本会に帰属するものとします。ご自身の著書に収録するなどの際には、本会にお知らせください。

<編集委員会> 岩下哲典、大豆生田稔、木下聡、鈴木道也、高橋圭、千葉正史、西村陽子、長谷川岳男、朴澤直秀、村田奈々子、森公章(五十音順)

8. 編集後記

 本号は、6月29日に開催いたします白山史学会第60回大会・第52回総会の特集号です。今大会では、公開講演を長谷川岳男先生と倉本一宏先生にお願いいたしました。また、東洋大学大学院科目等履修生の小倉草氏および東都リハビリテーション学院非常勤講師の矢本 彩氏に研究報告をお願いしました。ぜひご参加ください。大変お忙しい中、講演依頼をお引き受けくださいました長谷川岳男先生、倉本一宏先生、研究報告をお引き受けくださいました小倉草氏、矢本彩氏に改めてお礼を申し上げます。今後とも本会の活動にご理解ご協力賜りますよう、よろしくお願いいたします。 (庶務局長 中村)


『白山史学会会報』第129号 [メルマガ8号] 2025年6月4日

白山史学会会員のみなさま 小満の候、会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。 『会報』第129号(メルマガ8号)を送らせていただきます。 なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)までい...