2025年4月27日日曜日

『白山史学会会報』第128号 [メルマガ7号] 2025年4月28日

白山史学会会員のみなさま

穀雨の候、会員の皆さまにおかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。『会報』第128号(メルマガ7号)を送らせていただきます。なにかお気づきの点がございましたら、学会事務局(hakusanshigakukai@gmail.com)まで、いつでもご連絡ください。

1. 2025年度卒論発表会について

 『会報』第127号(メルマガ6号)でお知らせした通り、今年度の卒論発表会は5月10日(土)午後1時30分〜午後4時15分に開催されます。開催形態は対面とオンライン配信をともに行うハイフレックス方式です。

 対面の会場が決まりましたのであらためてご連絡いたします。対面、オンラインとも事前登録なしでどなたでもご参加いただけます。みなさまのご参加をお待ち申し上げております。

・対面開催の会場:6218教室(白山キャンパス6号館2階)

・オンライン配信のミーティング・リンク:https://x.gd/pt6ON

*白山史学会のオンライン配信にはZoomを使用いたします。

*オンラインで参加される方が当日配布資料をダウンロードするためのクラウドストレージ・アドレスは発表会当日お知らせします。

2. 新刊紹介

メルマガでは、会員が関係する新刊書籍を紹介いたします。今回の対象書籍は、岩下哲典著『黒船来航絵巻《金海奇観》と幕末日本』(中央公論美術出版、2024 年)です。なお、雑誌『白山史学』には会員書籍に関する書評も掲載されていますので、そちらもぜひご覧ください。

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 早稲田大学図書館所蔵の≪金海奇観(きんかいきかん)≫乾坤二巻(以下、「」引用以外の地の文では「奇観」とする)は、嘉永7年(1854)第2回目のペリー来航の諸相を細かく画像化したものである。編者は仙台藩の儒学者・砲術家大槻磐溪である。「奇観」は、磐溪が仙台藩主伊達慶邦に提出したものである。

 「奇観」については、早稲田大学図書館古典籍総合データベースで画像を確認することができるほか、著者がペリー来航160周年を記念して「奇観」を忠実に復刻した雄松堂書店(現丸善雄松堂)から解説付きで限定100部で刊行したものがある。雄松堂から出された復刻版を用いて解説したVTRを東洋大学のHPで模擬授業(web体験授業)として鑑賞することもできる。また、「奇観」や作者磐溪に関しては、あとがき(165頁)に嶋村元宏氏の一連の研研究成果などを紹介されている。最新の磐溪研究として、小岩弘明「大槻磐溪―幕末明治を駆け抜けた武人学者」(一関市博物館編『学問の家大槻家の人びと 玄沢から文彦まで』(吉川弘文館 2024年11月)が挙げられる。ほかに、異国船絵巻について、大久保利謙監修・松平乗昌・岩壁義光解説『黒船来航譜』が網羅的である。その他、多くの研究書を用いて本著は構成されている。

 本著の構成は以下の通りである。

 プロローグ

第一幕 ≪金海奇観≫にかかわった人やその写本など

第二幕 大槻磐溪≪金海奇観≫を読む

第三幕 「ペリー来航予告情報」と大槻磐溪

第四幕 一九世紀の日本と国際関係―ペリー来航前後の世界―

エピローグ

参考文献


 以上を踏まえ、本著を「岩下流『江戸時代対外交流史概説』」(4頁)という位置づけをしている。

 著者は本著を通じて、「一九世紀の日本人、大槻磐溪の生の声を」「一九世紀の日本と国際社会を理解したうえで、直近でいえば『ペリー来航予告情報』を知ったうえで、≪金海奇観≫を賞味していただきたい」(4頁)と述べている。

 ここから、各幕を紹介していくこととする。

 第一幕で、「奇観」の製作の役割が示されている。磐溪は編者であり、序文を書き、かつ全編にわたって、「タイトル」や「識語」などのコメントも施している(6頁)。幕府儒者林家の家塾長河田迪斎が題字を揮毫している。河田はメンバーの中で、最もペリーに近い場所にいたということで重要な人物である。ペリーが献上した蒸気機関車模型の客車に真っ先に乗って西洋文明を体験しただけでなく、冷静に観察した(7頁)。近江膳所藩儒関藍梁は、乾巻の第二図「横浜応接所真景」を描いているが、絵師ではないのでどことなく稚拙な雰囲気もある。それゆえ関が描いた乾巻のペリーとアボットの肖像画は、のちに磐溪プロデュースで美作津山藩御用絵師鍬形赤子との合作となったのであろう。なお、坤巻の跋文を認めたのは関である。実に能書家である(8頁)。信濃松代藩医にして絵師の高川文筌は日米和親条約締結交渉日本側全権伊澤美作守政義の家来で、医師として応接所に赴き、内部で行われた交渉を見ていくつかの作品を残しており、文筌の絵は「奇観」にも収録されている。乾巻第三図の応接所の「伊澤用人 同警固人」の用人か警固人のどちらかが文筌(おそらく警固人)であろう。全権の付医師が応接を描くということであり、ベストポジションから「奇観」に絵を提供した人物である(9頁)。鍬形赤子は、「奇観」の関が描いたペリーとアダムスの衣服等が実際とは違ったため、改めて書き直したと磐溪が「識語」に書いている。結局、ペリー、アダムス、アボット、ブカナン、テンスル(号令官)の五人を描いている(10頁)。赤子晩年の作品ということになる(11頁)。さらに、箕作阮甫や宇田川興斎といった津山藩関係者と磐溪との親密な情報交換の結果「奇観」が出来上がったのである(12頁)。

 磐溪の「奇観」に最も近い写しは加賀藩儒者西板成庵が編集し旧蔵していた江戸東京博物館所蔵の「奇観」である(14頁)。西坂が何を基準に原本から画像を抜粋したのかはよくわからないが、成立が日米修好通商条約を締結交渉のため江戸に出府したハリスが老中首座堀田正睦に対して大演説する前の時期にあたっており、改めてペリー来航と日米和親条約が見直されたことが理解される。西坂は天保二年(1831)に昌平黌に学び、磐溪と親交を結んでいた可能性があり、こうした背景も模写する背景にあった(15頁)といえよう。ほかにも多くの写しがあるが、昌平黌関係者の儒者たちによって写し伝えられたものや、磐溪と蘭学者との親交による蘭学者たちによって写し伝えられた(15頁)ものが確認できる。よって、今後も「奇観」の写しが見つかる可能性はある(17頁)。

 第二幕は、本著のメインで各場面の解説がなされている。「奇観」乾の巻の第一図は、正体不明の「画師辻探昌」によるものと考えられ、横浜の「権現山」を手前にして、中景に「横浜」村と「応接所」、本牧鼻まで、遠景には「房州鋸山」を描いており、その沖合にはペリーの九艘の艦隊が描かれている。図の上部に各艦の入港日付、砲門数、乗組員数、艦種、艦長のデータが記されており、艫にはアメリカ合衆国の国旗が翻っている。艦隊の手前には「神奈川宿」、その警備担当の明石藩陣屋が確認できる。さらに左には「新宿」「子安村」「潮田」の地名が確認できる。

 第二図は、「横浜応接真景」で関が描いたものである。これは安政元年(1854)2月10日の初上陸の様子を同年3月上旬に描いたものであると推測される。右側の富士山はこの図の位置に実際には見えないことから、構図のバランスをとったものとみられる。

 第三図は「応接所見取り図」で、作事の指図を用い、上陸当日の様子を加味した、きわめて正確な平面図となっており、応接所の概要を藩主に説明するには大変便利である。

 第四図は、ポーハタン号の図である。第五図はなぜか二本マストの「魯西亜国蒸気船」である。喫水線より下の部分、船底まで描いた珍しい図である。本図は、長崎の版本からの筆写であり、米魯の比較のために収録したものである。第六図はサスケハナ号、第七図はマセドニア号、第八図はサプライ号、第九図は「バッテイラ」を描いている。

 第十図は「上官之者」「軍卒之長」「楽人」「銃手/号令官」「エドガー・ヨーリング」の五人の人物が描かれている。オランダ系アメリカ人エドガーとオランダ語が話せる日本人との間の橋渡し役を担ったので、エドガーが単独で描かれたものとみられる。

 第十一図は、幕府に献上された「騎兵軍刀」、第十二図は「Colts Pistol/六響手銃」で、応接掛の目付松崎万太郎がペリーから贈られたコルトネイビーの実物を見て磐溪が写し取ったものである。第十三図は「六響手槍期間解剖図」で、大槻礼助が写したものである。第十四図は「火薬罐/ゴウヤク入レ」の「正面」「裏面」「側面」および「上面」を描いたものである。第十五図は、銃の工具を三面から見た図である。第十六面は「鉛丸鋳/ナマリマイカタ」で、弾が製造できなければ実用品とはならないため、重要な工具である。第十七図は「ボート ホウヰッスル縮図」で、野戦砲にもなるボート積載用大砲の図であるが、遠近法に描き馴れていない部分が見られる。

 最後に磐溪の跋文に、羅森の七言詩が二首掲載されている。著者は「磐溪は、羅森との交流から東洋世界の共通言語である漢文・漢語に信を置くことができたのではないだろうか」(67頁)と締めくくっている。

 次に、坤の巻についてみていく。第一図は乾巻の第一図と呼応する。右端の海岸に真田・小笠原・井伊家の陣屋、その手前に全力で漕ぎ手が漕ぐ一艘の小型和船、横浜応接所、陣屋、本牧鼻を中景に描いており、本図では乾図で見られた地名の記入は見られない。この図は安政元年2月10日の第一回交渉時のアメリカ全権の上陸図で、ペリー、アボット以下軍楽隊・歩卒に至るまで640人あまりが上陸したことを記している。

 第二図は2月22日明け方にバンダリアとサウサンプトンが下田港を目指して出航した場面である。この二隻の船は下田港が船舶の寄港地として適当であるか調査するために派遣したものである。第三図は、2月26日、ブキャナン艦長指揮下の蒸気軍艦サスケハナ号がアメリカに帰国する図としている。第二図は日本側にもかかわる事実であったが、第三図は、アメリカが日本側に真実を告げなった点で異なる。しかし、どちらも艦隊編成の変更であり、日本側にとって関心事であった。第四図には、蒸気軍艦ミシシッピ号が描かれている。

 第五図は、ボート砲を船首に積載した短艇図で側面図である。船の描き方が第四図と共通しているので、絵師は辻昌探の可能性もある。第六図は、アメリカ製十二ポンドボートホウィッスル縮図である。乾巻の第17図の図とほぼ同じであるが、砲口の描写、後輪近くの縄の結び形状などに微妙な違いがみられる。ボート砲は多くの日本人砲術家が注目することとなった。

 第七図は、四角の枠で囲った中に胸から上までの人物図を描いたものが10人分、および全身図が1人分、合計11人分が描かれている。

 第八図から第十一図までは、鉄道関係の一連の図である。第十二図は電信機である。ペリーの献上品として、確実なものはこの電信機と国立科学博物館に所蔵されている天秤くらいで、ほかはほとんどが消失してしまっている。

 さらに、膳所藩儒関藍梁の跋文がつく。磐溪と関はお互いに持っている情報を突き合せ「奇観」を作成したものとみることができ、もとは一巻本であったことが知られる。

 第三幕は、磐溪や津山藩医箕作阮甫の動きをまとめたものである。ペリー来航予告情報は、ペリー来航の一年前に長崎のオランダ商館長が長崎奉行にリークした3つの情報である。「オランダ別段風説書」が最初である。次に、バタビア総督による長崎奉行宛公文書、最後が日蘭通商条約草案である。このほか、口頭による説明もあったと考えられるが、文章では残っていない。公式に情報にアクセスができたのは、長崎奉行関係者と老中およびその関係者に限られた。しかし、老中首座阿部正弘の政治的判断によって、最初の別段風説書が、琉球・長崎防衛の外様大名や江戸湾防備の浦賀奉行、譜代大名に内密に伝達された(83―84頁)。

 磐溪は昌平黌や林家との深いパイプがあり。こうした人脈を通じてペリー来航情報を入手して「奇観」を作成したと考えられ、磐溪の情報収集の成果が「奇観」ともいえる。蘭学者たちが蛮書和解御用から蕃書調書に格上げしようとすると、昌平黌の儒者らが黙っていない。ペリー来航後とは言え、箕作阮甫が切望した蕃書調書設立に昌平黌の儒者や漢学者らが反対しなかったのは、磐溪と阮甫とのつながりがあったからにほかならないだろう。このことが「奇観」の背景に垣間見えるのである(103―104頁)。

 第四幕は、ペリー来航前後の日本と国際関係について論じたものである。近世日本の対外関係は、いわゆる「鎖国」であり、その実態は、四つの口(長崎・対馬・琉球・松前)の人・物・金・情報の管理と運用であった。なかでも幕府直轄地長崎の管理と運用は幕府にとって重要であった。「鎖国」の中心課題はキリスト教禁令であり、そのため日本人の海外渡航の禁止と中国・オランダ人との限定的交易、漂流民の送還体制の構築と運用、異国船の通報と警備、中国・オランダによる海外情報の自発的提供が行われた。よって、外交の最前線に立つ者や幕府の要路以外は海外情報を入手できる状態になかった。それでも困難をおかして海外情報を入手したのが蘭学者たちであった(109頁)。

蘭学・洋学の発展は、有用性から医学や天文学から発展したというのはその通りだが、未知の世界(特に西洋社会)をのぞいてみたいという気持ちから、学問的な営為のため、医学・地理学・言語で重要な業績を残したのが磐溪と阮甫であった。両者は「奇観」にもかかわりがある(117頁)。

 ペリー艦隊以前にロシアやイギリス、アメリカなどの接近によって情報は、収集され、まとめられた。漢学者であっても、政治の在り方にかかわるような対外関係や海外の情報はきちんと収集していた。

 ペリーやプチャーチンの来航によって、日本は国際的な競争社会へ入っていかざるを得なくなった。この時、これらの来航情報を仙台藩主に報告するために作成したのが磐溪の「奇観」であった。

当時の言葉になかった「開国条約」や「和親条約」といった用語そのものの妥当性に目を向けていく必要がある。ここには後世の人間のある種の価値観が反映されている可能性があるため、解釈用語によって隠蔽されていた真理が見えてくるのではないかと著者は述べている(142頁)。用語という点に注目すると、いわゆる「大政奉還」の上表も当時の用語に最も近い「政権奉帰」という言葉を用いた方がよく、「王政復古」によって、「大政奉還」が完成するのである。

 江戸無血開城によって「静岡藩」が成立するが、静岡旧藩勤番士(旧幕臣)は石高が平均化され、生活も均一化される中、藩の職制からは分離されて、階層としては最下位に位置づけられた。勤番士たちは明治初期を自らの力で切り開いていかなくてはならなかった。これは大きな社会変革で、この発端が19世紀初頭のロシアの日本接近であり、それによる蘭学・洋学・ナポレオン研究であった。さらに19世紀中葉からのアヘン戦争とオランダによる情報の伝播・開国勧告、さらにペリー来航予告情報とペリー来航だった。

 戊辰戦争で、仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり、磐溪は万延遣米使節団で渡航経験のあった玉虫左太夫に期待した。左太夫の『航海日録』には同じ構造であるはずのホテルの記述が毎日詳しく書かれている。省略してもよさそうなものをそうしない。これこそが、磐溪の望んだアメリカ見聞の記録であった。しかし、同盟軍は大敗し、左太夫は責任を取る形で切腹した。磐溪自身も同盟を支持する文書を書いたことから、咎められ、入牢した。磐溪は、明治4年(1871)に許され、東京に出て余生を送り、明治11年に亡くなった。

 林子平、大槻玄沢、高野長英、小関三英といった東北人は比較的早くから対外的な危機感を持っていた。異国情報、海外情報は、4つの口から江戸に集まり、さらに地方にも運ばれる構造になっていた。各藩がやる気と能力とネットワークさえあれば、そうした情報を入手し、収集して分析して活用すること、すなわち効果的な情報活動が可能であった。

 こうしたことは磐溪の「奇観」乾坤二巻に示され、その世界と背景は前後50年のこの国とそれを取り巻く歴史を詳細に見なければ理解できなかったものといえよう。まさに「奇観」に示されたペリー来航時の記憶は後世に伝えるべき文化財といえるのである。

 以上、本著の内容整理をしてきたが、最後に筆者の所感を述べることとする。近年、歴史学において文字資料のみならず図像資料の解釈が求められるようになってきた。本著は「奇観」の隅々まで図像資料を解釈し、さらに先行研究や文字史料と突き合わせて生み出されたものである。図像資料の解釈方法の実践がなされたのが本著であるといえよう。ペリー来航時に写真が日本では浸透していなかったため、絵画による情報は極めて重要であり、画家たちの力量が大いに試されたものと推察できる。また、大槻磐溪や箕作阮甫を通じて、近世の知識人の思考を垣間見ることができた。対外的な危機を迎えた時の対処方法が見られ、現在にも通じるものがある。「岩下流『江戸時代対外交流史概説』」の奥深さを改めて痛感させられたのが本著である。  

(塚越俊志[東洋大学非常勤講師])



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